30歳無職の活動日記

30歳無職の暮らしの発信と株取引の紹介

今のモヤモヤ(本当の不満)

 

 

こんにちは。紺色猫太です。

 

今日のタイトルは「今のモヤモヤ(本当の不満)」です。

いきなり何だ?と思うかも知れませんが、直近の記事で私は過去のモヤモヤについて書きました。実際に毎日のように過去に嫌な経験をさせられた相手のことを考えて、心の中で批判や攻撃をしていました。ですが、この状態はストレス解消にはなりませんし、余計に興奮状態になって疲れます。

 

どうしてこんな状態になってしまうのだろうと悩んでいました。そしてなんとなくですが、答えが見つかった気がします。

 

その答えは、「今のモヤモヤ」から受けているストレスが過去の苦い経験を呼び出しているということです。私は今大きなモヤモヤを2つ抱えています。

 

1つ目は自分で手掛けている株式投資です。毎日多少の利益は出ていますが、目標には程遠い上に、一部の保有銘柄が評価損状態でストレスを感じています。毎日、評価損銘柄の値動きをチェックしますが、下落が続くと精神的に辛いです。このままずっと評価損のままなのか?それとも損失覚悟で処分した方がいいのか?など、ネガティブなパターンばかり考えてしまいます。そして心の中では「もう評価損銘柄のことは考えたくない」と思って考えないようにして意識を逸らします。しかし心の中ストレスは残ります。そのストレスが過去の苦い経験を呼び出して私を苦しめます。確かに過去の経験を呼び出している間は評価損銘柄のことは考えていないので意識を逸らすことには成功しているのですが、ストレスは軽減されていないので、苦しい状態は続きます。

 

2つ目は妻との関係です。お互い在宅で活動していますが、妻の行動に無意識に不満を抱えています。妻は私が会社を辞めて株式投資に取り組むことを応援してくれていますし認めてくれています。私にとってはありがたい存在です。しかし、妻自身の活動に集中できずに遊んでいる様子を見ると不満を抱えてしまいます。「このままで生活は大丈夫だろうか?」「こいつは何をやっているんだろうか?」等、家で妻がリラックスしている様子を見るとイライラするのです。そして喧嘩になるとかなり言い争うので、お互い激しく消耗します。最近はもう喧嘩して疲れたくないと思い、喧嘩しそうになったら私が折れます。しかし、ヒリヒリした空気は続くのでストレスを抱えることになります。そんな時に過去の苦い経験が出てきます。

 

私の場合は以上2点のストレスが過去の苦い経験を呼び出して私を苦しめています。考えてみれば、過去の苦い経験をした相手とはもう10年以上関わっていないので今現在の私を苦しめてはいません。そして私を苦しめているのは現在解消できずに抱えている上記の2つのモヤモヤです。なのでこの2つを解消すれば心が楽になると気付きました。

 

対策としは「株式投資では、評価損銘柄の処遇ははっきりさせる」ことと「妻に対してはモヤモヤは伝えて、寛容的になる所は寛容になる」ことだと考えました。

 

過去の苦い経験が出てくることは、現状について解決すべきことがそのままになっている警告だと受け取るようにしました。

 

簡単ではありますが、これが私が見つけた過去の苦い経験に対する答えです。

 

 

お読み下さりありがとうございます。あなたの人生がよいものになりますように。

 

 

 

 

 

 

昔のモヤモヤ(神通力、、、)

 

こんにちは、紺色猫太です。

 

今回は昔のモヤモヤ(神通力)についてです。別にオカルトではありません。私もそんなもの使える訳では無いですし。それに、辞書で調べた「神通力」と私がこれから記載する「神通力」は意味が異なります。私が経験したことの一つを私が「神通力」と呼んでいるに過ぎません。ですが、この記事をお読みになってご自身の経験で、これは「神通力」ではないか?と思い浮かぶことがあるかも知れません。

 

ネットで神通力の意味について調べると

・超人的な能力。通力 (つうりき) 。何事も自由自在になしうる力。と出てきます。

 

私が経験したこととして主に中学時代の内容が中心になります。中学時代の私はお世辞にも優秀な学生ではありませんでした。しかし不良でもありません。根暗でオタク気質。学業や運土神経は他の学生に劣ることを自覚して常に劣等感を抱えていました。運動系の部活動に所属していましたが、実力は底辺でした。こんな状態なので校舎内で同級生に馬鹿にされたり、煽られても「どうせ俺なんて、、」と卑屈になって嫌がらせが過ぎるのを耐えることが多々ありました。そうした楽しくない中学時代を過ごし、高校、大学、社会人を時が過ぎました。嫌な記憶はいつまでも残り続けるもので未だに辛かった記憶が出てきてわああああ!!!!となる時があります。

 

そして、なぜ中学時代に馬鹿にされたり、煽られた時に拒絶や喧嘩をせずに耐えることを選んでしまったのかと考えてみました。その時の相手はどんな状態で今どうしているのかとも考えました。先ず、私が馬鹿にされたり、煽られた時頭の中で想起したのは「こいつはムカつくけど俺より運土神経が良いし喧嘩になったら敵わない」だったり「今クラスの中心人物に盾突くのは得策ではない」、「喧嘩したら親が呼ばれて面倒になる」「あいつの周りの奴らも喧嘩が強そうだ」です。つまり、私は相手の背景に屈したことになります。相手は私がそんなことを考えているとは思わないでしょう。

 

なぜ「神通力」だと思ったのかと言うのは以下の経験からです。登場人物は別の記事にも登場してきます。

 

ケース①同じ部活のレギュラーメンバー

私は中学時代に同じ部活のレギュラーメンバーに嫌がらせを受けていました。毎回悔しい思いをしましたが、心の中では「俺は補欠であいつはレギュラー、盾突くのはやめよう」と思い耐えていました。彼は中学時代卒業後はどうしていたかは知りませんでした。彼と成人式で会った時に「中学時代はごめんなさい」と謝られました。私は思い当たる節がありすぎたのと、もう関わり合いたくなかったので「わかったよ」と言ってその場を終わらせました。人伝に聞いた話では彼は同じ部活の他の部員にも嫌がらせを行い退部させていました。辞めた部員がそのレギュラーメンバーが原因で辞めることを顧問に伝えて退部したそうで、顧問から厳重注意を受けていたとのことでした。また、同じ部活ではありませんが、別の同級生(記載上B君)とも問題を抱えているとのことでした。私とそのレギュラーメンバーは別のクラスでしたが、高校や大学に進学した時に開いた同窓会で毎回B君と喧嘩していたそうです。このことから、私は運動や学業が優秀でも人を蔑ろにすると後々になってから相手にされなくなると思いました。

 

 

ケース②他部活メンバー Wさん

私は所属していた部活とは別の部活の人からも嫌がらせを受けていました「どんだけ弱いんだよ、、、」と思いますが私には当時どうすることも出来ませんでした。高校生になり、中学時代に仲の良かった友人から学園祭に呼ばれました。私は地元の友人と一緒に出向きました。そこで、全く把握していなかったのですが、出向いた学校にWさんがいたのです。私と友人が学園祭で出向いた校舎の階段を下りていると、廊下からWさんが現れました。彼は私を見るやビック!!となり、私と視線を数秒合わせた後、来た所へ引き返して行きました。私は数秒の出来事だったので最初はわかりませんでしたが、彼を視認している間、心の中では「あ、あいつだ。Wだ。この学校だったのか」と思い、彼の目を凝視したまま階段を降りていました。私を招待した友人によると「Wは高校生になってからは大人しくなった。中学時代とは別人のようだ」と言っていました。

 

以上、2つのケースでは彼らは私からすれば中学時代を謳歌したスーパーマンでした。憎くもありながら羨ましくもありました。彼らがなぜ中学卒業後も同じ態度を維持出来なくなったかと私なりに考えました。結果、彼らの「背景」が進学によって霞んでしまったからだと思います。進学し、能力が同じ様な人たちが集まり、マウントが取れなくなった。寧ろ自分が下かも知れない。優越感を感じる相手がいなくなった。ということだと思います。更に私の中学の学区は周辺の小学校からエスカレーターで入学します。なので人間関係でも中学時代は苦労することが無かったのでしょう。ここで、冒頭に書いた「神通力」が出てきます。中学時代は部活の地位や学業、友人の華やかさを武器に相手を無言に威圧することが出来ましたが、環境が変わると通じなくなります。そこで彼らはようやく環境によって生かされていたことを痛感し、私からすれば小さい存在に様変わりしていました。そして、中学時代に威圧したり馬鹿にした相手に再度同じ態度で接することは出来ないでしょう。また、自分が見下した相手には温かく接することはプライドが許さないでしょう。結果、彼らは私の前で縮こまる態度を見せました。多少それますが、社会人になってからは会社員として上司や先輩、取引先に圧をかけられる時も私の考える「神通力」に似ているなあ、と思います。

 

どれだけ優秀でも人を馬鹿にしたり嫌がらせすることは許されません。しかし、彼らは中学時代の威勢を進学後も維持できなくなっていました。彼らのその後はわからないのが残念です。恐らく、学生時代にブイブイ言わせて周りに迷惑かけた人達が大人になってからどうなったかを知る術が多くの環境で無いでしょう。同窓会が定期的にあったり、情報通の友人がいれば話は別ですが。

 

私は中学時代悔しい思いを沢山しましたが、その後の人生は何とかしようと努めるきっかけにしました。大人になった今でもつまずくこともありますし、学生時代に悔しい思いをせずに上手く過ごせたらと思いました。しかし、学生時代に悔しい思いや悲しい思いをした自分に報いるには今を精一杯生きて幸せなるように努めることだと思います。もし、タイムマシンがあって大人の自分が中学時代の自分に「大人になってもダメダメだよ」と言ったら学生の自分はきっとしんどいでしょうからね。

 

今回はここまでとさせていただきます。お読み下さりありがとうございます。あなた人生がよいものになりますように。

 

 

 

 

 

昔のモヤモヤ(あいつは今、、、)

 

こんばんは、紺色猫太です。

 

久々に連日の投稿です。

早速ですが、タイトルにある通り今回は「昔のモヤモヤ(あいつは今、、、)」編です。

 

今回の内容は主に私の中学時代の登場人物が中心となります。

私の中学にはガキ大将クラスの人が数名いました。私も何故か中学時代に煽られたこともあり、未だに思い出すと苦い気持ちになります。そんな中学時代は学校の中心人物として青春を謳歌したガキ大将達が社会人になっても勢いをそのままにしているのか私の経験を中心に記載していきます。そして私のドロドロした部分もあるので取り扱いにはご注意を。

 

ケース① 野球部ガキ大将

小学校時代から野球クラブに入り、中学時代に野球でレギュラーになる。女子とも良好な関係が多く、中学時代には周りには常に取り巻きがいました。私と同じ小学校でしたが、中学時代にはなぜか煽られることがあり、どうなってしまったんだろう???と言う思いでした。中学を卒業してからはどうなったか把握していませんでした。私の母が商店街でたまたま挨拶されたらしく、話ではどうやらまだ実家住まいとのこと。これは偏見もありますが、子供部屋おじさんになっているようです。

 

ケース② サッカー部ガキ大将

私と同じ小学校で、運動神経抜群。女子にもモテる。中学時代に私には直接の影響はありませんでしたが、ケンカなら多分最強と周りからは見られていました。小学校時代は同じクラスで一緒に遊んだ時にトレーディングカードを盗まれたことはあります。。。社会人になってからは、これもまた、母が人づてに聞いたそうですが、不動産会社に勤めて毎日遅くまで残業し、実家住まいだそうです。

 

ケース③ 美術部ガキ大将

運動神経と学校の成績が良く、取り巻きももてはやされたクラスの中心人物でした。私は2年生の時に同じクラスでしたが、なぜか私は冷遇されており、基本的に嫌いでした。社会人になってからは友人経由で聞きました。ずっと実家住まいで、新卒で営業職の仕事をしていたが辛くなったため転職、アンケート関係の会社に勤め始めた矢先にコロナに感染してしまったとのこと。

 

以上3名についてですが、特に現状については一見、おかしいところは無いように見受けられます。転職もこのご時世では普通ですし、実家住まいも資金の節約と考えればわかります。コロナに感染してしまったのは可哀想とも思えます。ただ、当時の私から見れば中学時代に彼らは絶好調な部類でした。ドラマやマンガでは主役や重要キャラになれるくらいの勢いがありました。

 

そして社会人の状態を聞いた感想はあまり目立たない印象になってしまいました。特におかしなところはありません。他にも似た境遇の人はいるはずです。ただ、私からしてみれば中学時代と社会人との比較で「落差」が激しいと思いました。母親や友人から彼らの近況を聞いた時の私の第一印象は「なんかしょぼくなったな」です。彼らが中学卒業後からどんな生活を送ったかはわかりませんが、中学時代に比べて見劣りしてしまいます。

 

ではなぜ「なんかしょぼくなったな」という印象を抱いたかについてですが、1つ目は私自身が中学時代の彼らを眩しく見ていたからだと思います。彼らと関わる中でドロドロした感情を抱きながらも心の中では「きっと彼らはこれからも上手くいくのだろう」思っていました。2つ目は案外とまだ実家住まいでいたことです。実家住まいが悪いことではありません。何かしらの事情もあるかもしれません。しかし私からすると、楽しかった地元に拘り続けて外に出られないのかなと言う印象です。クラスで中心人物になり楽しい日々を過ごしても、社会人になって会社で揉まれて小さい存在になってしまったなと思いました。恐らく威勢を張れるのがもう地元しかないのでしょう。

 

上記3名とは別に私が社会人になって久しぶり会った中学時代の友人に「中学時代は楽しかった」と言われたことがありました。彼は中学時代は成績優秀で運動神経抜群、多くの友人にも恵まれていました。私は彼とは懇意にしていたので先程の「中学時代は楽しかった」という発言を聞いて寂しくなったのを覚えています。どうして中学時代に栄華を極めた彼らが社会人になって寂しい存在になってしまったのか私なりに考えました。

 

1つ目は人間関係です。私の中学は地元の小学校からエスカレーターで入ります。中学受験で私立に行かなければ小学校のメンバーは固定のまま中学生となります。なので、ガキ大将達は人間関係で特段に苦労することなく中心人物となれます。

2つ目は能力について自己完結しておけば思い通りの環境が手に入ったことです。部活動でレギュラーやクラスで人気者、学業を頑張ればその分だけ周りの待遇が良くなったはずです。

 

しかしこれらは社会人になってからは通用しなくなったのでしょう。自分の威勢は周りの取り巻き達が担保してくれるところもあったでしょうから、社会人になってからは裸の王様同然です。学生時代に向かうところ敵なしで脅威が無かったために学生時代で成長が止まってしまったのでしょう。学生時代にガキ大将達から辛酸を舐めた人達にとっては朗報ですが、廃れたガキ大将達が社会人になって追跡出来ないのが残念ですね。ただ、彼らは過去のプライドはまだあるでしょうから同窓会では生き生きとしているかも知れませんのでご注意を。

 

私がこの記事で伝えたいのは、学生時代に人間関係で苦労した人達のその相手は社会人になってからは大したことがなくなっているので気にしなくていいということです。

 

今回は以上になります。あなたの人生がよいものになりますように。

 

 

 

 

 

 

昔のモヤモヤ(中学時代部活編)

こんばんわ。紺色猫太です。

記事の投稿が大分間延びしてしまいました。すいません。

昨年はコロナ世界が一遍して色々ありましたね。今も大変な状況は続いていますが、

これを読んで下さっている方はご無事であって欲しいと思います。

 

私個人としては、昨年春先から鬱を発症しまして辛い日々でした。いまも若干引きずっていますが、こうしてブログに向かえています。

 

今回はタイトルにある通り「昔のモヤモヤ(中学時代部活編)」です。

学生の時は、大人になったら人生は一遍するくらい様変わりするかと思っていました。経済環境や身体面は変わることがありましたが、内面は結構学生時代のモヤモヤやドロドロを引きずっています。今も学生時代の嫌なことを思い出して。うわーー!!!ってなったりします。私の場合、部活が中学暗黒時代の象徴でした。これでいじめに繋がったこともあるし。。。。

 

今回はなんとなく「実はこうだったのでは」と思うところがあったので、自分の感性中心で書いていきます。「ここは違うだろ」とか「そうじゃないよ」と思うところがあるかもしれませんがご容赦ください。

 

当時の状況を説明します。私は体育会の球技関係の部活に所属していました。入部した部活に入った動機は「小学校時代の体育で楽しかったから」です。実際に入部してみると、同期となる同学年は20人弱。先輩後輩の関係は絶対で、市内での実力は中堅でした。公立の中学でしたが、他の学校の学区に比べ、教育熱心な親が多い環境でした。部活の成績が高校推薦にも影響するので、他の部活では親が部活の顧問に強いところもあったようです。

 

私の1年生夏休み前の実力は同期と比べると一番下でした。本格的に取り組む初めてのスポーツでしたし、努力の仕方も分からなかった。ずっとなんでこんなに他の人と差が出ているのだろうと「?????」状態でした。そして部活ではユニフォームと背番号が割り当てられます。私は一番最後の番号です。背番号が割り当てられてからは同期との仲がギスギスして行きました。中学生はまだ子供。子供とは残酷なもので、弱いと認識した者に対しては強気になります。私は中学時代はずっと弱者の位置に甘んじることになりました。同期の階層としては、その部活競技が上手い「上位層」上位層には一段劣る「中間層」全くダメな「下位層」です。私は上位層と中間層から中学生活中は嫌な思いをさせられ続けました。

 

ただ最近、腑に落ちたことがあり、今回の記事の結論ですが、「「「中学時代の実力は親の影響が大きいので気にしない!!!」」」です。

 

どういうことかと言うと、中学時代の実力の差は小学校時代からの積み上げが影響します。競技が上手い「上位層」は小学校時代から土日のクラブ活動で練習していたメンバーがほとんどでした。一部には、中学から始めて実力を付けた人もいましたが少数です。そして小学校時代のクラブ活動は親の意識や援助が大いに影響します。小学生が自分で行きたいクラブ活動を見つけて、運動着の洗濯やクラブ活動中のお弁当作るわけがありません。当然、親が支援します。小学校時代に親のサポートを受け、メキメキ実力を付け、中学時代に花を咲かせます。本人の努力もあっていいことだとも思いますが、親のサポートで実力を付けたことを鼻にかけて他を見下す兆候が私の部活の「上位層」にはありました。「中間層」は見下されるのが嫌だけど実力ではかなわないのが分かっているから「上位層」にすり寄るか「下位層」を叩いて優越感を得る又はその両方でした。私は「下位層」だったので学校生活でも同じ部活メンバーに対しては委縮して苦い思いをし続けました。不思議なことに当時はその構図がはっきりとはわかりませんでした。

 

そしてここからは中学を卒業してからの経験と教訓になります。

1つ目は成人式です。成人式が地元で行われた時、私に嫌がらせをしていた同じ部活の一人が「今までごめん」と謝って来ました。私は思い出したくないことが多かったので「ああ、わかったよ」で済ませてその場を終わらせました。これは和解だとは思っていません。理由としてはその謝って来た人は実は他の人ともトラブルを抱えており、立場が悪くなったので仲間を増やしたいのだろうと思ったからです。これは想像ですが、「和解したら許される」「和解したらまた自由な関係が築ける」とはならないと思います。一度、関係性に上下優劣が出来てしまうと立ち位置を修正するのは不可能だと感じるからです、立ち位置の「上や優」側は自分の立ち位置を手放したくないでしょうし、「下や劣」側は一度受けた傷は引きずるからです。なので私は謝られても無理だと感じ成人式以来、合うことはありませんでした。

 

2つ目は親同士の集まりです。私が大学生時に部活メンバーの母親が集まって飲み会をすることになったそうです。発起人は「上位層」メンバーの母親たちでした。私の母も行くかどうか悩んだそうですが結局は参加しました。母から集まりの時に出た話を聞くとほとんどが自分達の子供つまり私の部活動のメンバーの近況についてでした。私は中学卒業以来会っていない人の話を聞けたのもありますが、結局は「上位層メンバーの母親の自慢大会」だと感じました。冒頭の内容にもなりますが、親のエゴで子供のサポートや進路を決めて、子供もそれに従って、その子供が周りの子供に悪さするという構造が浮かび上がりました。

 

3つ目は、社会人になって5年目に部活動で仲の良かった人経由で「上位層メンバーから、また集まって競技しないか?」と誘いを受けていると連絡が来ました。私はもう関わり合いたくないので拒否しました。私に連絡をした人も結局は参加しませんでした。

想像するに、どうして「上位層メンバーが催しを開いたか」についてですが「過去にすがりたくなった」か「今の状態を自慢したくなった」だと考えています。学生時代に良い思いをした人は当時の環境を求めがちになります。社会人になって会社で揉まれてへとへとになっている時に学生時代のちやほやされた時代を再現して自分を癒したいという魂胆が透けて見えます。学生時代は個人の頑張りで理想の結果や環境が手に入りましたが、社会人になって上手く行かないことが多くなり過去に癒しを求めたのだと思います。辛酸を舐め続けた私にとっては無意味な会だったので参加拒否でしたが、これが正解だったと思っています。

 

ここでも私の想像ですが、学生時代に学力や運動神経で地位を築いた人はそこが人生のピークだと考えています。なぜなら、社会人になってからは思うようにいかないことが多くなり、人生の満足度が減るからです。いわゆる早熟タイプでしょうか。学生時代に他人との実力差で辛酸を舐め続けた人は安心して下さい。学生時代の差は親のサポート如何もあったでしょうし、社会人になってからも差が開き続けることはありません。

ゆっくりでいいので自分の満足する環境や状態を積み上げるといいと思います。

 

ここまで読んで下さりありがとうございます。

あなたの人生が良いものになりますように。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

退職後のお金 失業保険の待機期間を省略する手続き

こんにちわ。紺色猫太です。

 

今回は失業保険についてです。

会社を辞めた後、先ず心配になったのがお金についてです。なので先ずハローワークに行き、失業保険の手続きについて相談することにしました。

 

一般的に自己都合による退職では失業保険を受給するまでに3ケ月の待機期間があります。しかし私の場合はその3ケ月の待機期間を経ずに受給となりました。

 

理由としては私が「適応障害」による病で会社を辞めたためです。

自己都合であってもその理由が傷病であれば失業保険をすぐ受給できます。

※実際の状況は個々人で異なるので、最終的にはハローワークの判断になります。

 

待機期間を省略するための書類は下記が必要になります。

離職票

②傷病証明書

 

離職票

失業保険を受給する方全員に必要です。会社から受け取るには退職から3~4週間かかります。

 

傷病証明書

ハローワークが発行する用紙です。この用紙は自分の症状を診断した先生に記入してもらいます。

 

病院側で発行した診断書ではなく、ハローワーク発行用紙でないといけません。

病院の診断書は病状と病名が主な記載内容ですが、ハローワーク傷病証明書は就職の意思と離職理由を確認するのが目的です。

 

ハローワークで「傷病証明書」を受け取った時に医者には記載してもらう箇所を確認しておきましょう。

 

また、市区町村によっては国民健康保険の軽減・減免措置があります。これはハローワーク傷病証明書」の手続き時に説明がありますので確認してみましょう。

 

以上が失業保険の待機期間を省略する手続きについてです。

失業保険の手続きには離職票が必要ですが、手元に無くてもハローワークで受給手続きについて相談出来ます。なのでためらわずにハローワークで相談してみましょう。

 

ここまでお付き合い下さりありがとうございます。

あなたの人生がよいものでありますように。

 

 

退職したその後

こんにちは。紺色猫太です。

 

前回は会社を辞めたきっかけについて記載しました。今回はその後について記載します。また、記事を投稿した後から徐々に閲覧者様が増えてきております。

とても励みになります。ありがとうございます。

 

今回の記事は以下になります。

・自分に起きた変化

 

先ず、会社を退職した翌日についてです。

会社の最終勤務日翌日、私は少し遅い時間に目が覚めてそのまま妻とスーパーに買い物に行きました(妻とは退職の約半年前に結婚しておりました)。

平日の日中ということもあり、スーパーは空いていました。その日はよく晴れており、外を出歩くと風が気持ちよかったのを覚えています。

今までは朝から夜までずっと会社内にいたこともあり、平日の日中に出歩くのは不思議な気分でした。

 

 

今回の主題の自分に起きた変化についてです。

先ず漠然とした不安を日中ずっと感じるようになりました。お金は大丈夫かな?仕事はどうしよう?この先、家も車も欲しいけど持てるかな?親や友人はどう思うだろう?といったことです。サラリーマンだった時、日中は仕事に追われていたので将来のことを考える暇もありませんでした。お金については毎月月末に給与振り込みがあったので、「生きていくためのお金」については全く考えていませんでした。将来については会社の若手先輩が家を建てたり、子供ができた話を聞くと自分も先輩くらいの年齢にはそうなっているのかなぁ。くらいの漠然とした気持ちでした。

 

後は過去の嫌なことを思い出すことでした。私は学生時代の友人関係はまともではありませんでした。中学時代、体育関係の部活に所属していたのですがずっといじめられていました。ド〇えもんのジャ〇アンとスネ〇みたいのに嫌がらせを受けていました。一度、部活の顧問先生を交えて和解したこともありましたが、陰湿な嫌がらせは最後まで続きました。情けないですが私自身、その部活では活躍出来る立場ではなかったので相手に強く出られなかったのもありました。なのでその部活で楽しかった思い出はありません。会社を辞めて家にいると中学時代の嫌な思い出が頭の中で自動再生されるのです。妻と家で他愛もない会話をしている時でも当時のジャ〇アンとスネ〇がやって来て当時の私に嫌がらせをするのです。その嫌な感情を思い起こしてげんなりしていました。唯一嫌な感情から逃れる手段は寝ることでした。そうして日中寝続けたことで昼夜逆転し生活リズムが崩れていきました。また、起きてじっとしている時でも嫌な記憶が自動再生されるのでその感情を押し込めるために頭の中ではいろんな感情が台風のようにゴーゴーと渦巻いていました。

そうすると妻とも些細なことで喧嘩することが多くなりました。妻は悪くないと分かっていながらも、私自身は平常心ではないのでちょっとしたことで喧嘩になりました。その上、昼夜逆転生活になっていたため妻からすれば私は日中ダラダラ寝て起きたと思えば不機嫌ですぐ喧嘩になる。妻からも「こんな生活イヤッ」と何度も言われました。

 

私自身もこの状態は普通ではないと感じていたため、何かしないとといくつか行動しました。

 

➀外に出る

②過去に記憶の上書き

 

➀外に出る

仲の良い友人は皆サラリーマンのため平日の日中は会えません。なので一人で行動するしかありません。なので「図書館へ行く」「ジムに通う」「散歩」を先ずはすることにしました。「図書館」へは好きな本を持って行きました。日中の図書館は大学受験生や定年退職したおじさん達、まだ小さい親子連れの方々が主な利用者でした。本は家でも読めるのですが、家にずっといるとまた嫌な記憶が蘇るので環境を変えたかったのです。また、少し変かも知れませんが、図書館では児童向けの絵本も毎回2~3冊読んでいました。優しい絵柄と文章に癒されていました。

 「ジム」については、市営の体育館が近くにあり、筋トレやランニングマシンを使っていました。体を動かしている間は嫌な記憶が自動再生されませんし、体を鍛えることで達成感を得られました。体を鍛えてよかったことは、もし、今ジャ〇アンとスネ〇に会ったとしてもケンカなら負けないぞという自信も得られたことです(まぁ実際にケンカなどしないのですが)。

 「散歩」についてですが、公園や川沿いを歩くことで気分が晴れました。自分の住んでいる町でも知らない建物やお店、道があるので新しい記憶作りとしていいと思います。

 

 

過去に記憶の上書き

嫌な記憶を思い出して日中苦しめられていましたが、自分なりに対策していました。

「過去のジャ〇アンとスネ〇にやり返す」「ジャ〇アンとスネ〇より優位になる」「ジャ〇アンとスネ〇を味方にする」です。

 「過去のジャ〇アンとスネ〇にやり返す」とは、過去にジャ〇アンとスネ〇に対してこっちから仕返しした時を思い出してなだめる方法です。具体的には、中学の3年の時、スネ〇に嫌がらせをされた時に怒ってスネ〇の首を思いっきり両手で絞めたことがあります。時間にして1分くらいでしたが、首を絞めた後スネ〇はやり返すでもなく、涙目のまま離れていきました。また、19歳の時に当時の部活メンバーで集まった時に私が睨んだらスネ〇が怯えて近づいてこなかったことを思い出しました。そうすると、「自分もなかなかやるじゃないか」と思えて嫌な感情が薄まりました。

次にジャ〇アンとスネ〇より優位になる」についてですが、私は中学時代の部活でジャ〇アンとスネ〇以外には6人くらい仲の良い友人がいました。現在でも集まって遊ぶことがある大切な友人たちです。その友人たちが私にしてくれたことを一つ一つ思い出すのです。友人が私の家に遊びに来る時に最新のゲーム機を持って来てくれたこと、毎回遊びに誘ってくれること、友人が遠方に引っ越しした後でも呼べば駆けつけてくれること。他の人からすれば小さなことですが私にとってはどれも嬉しいこととして記憶しています。私は友人達がしてくれたことをジャ〇アンとスネ〇にはしていないことを想像して「自分はこんなにも恵まれているんだ。過去のことで気に病む必要は無い」と恵まれいる自分と何も無いジャ〇アンとスネ〇を比較して気持ちをなだめました。

 最後に「ジャ〇アンとスネ〇を味方にする」についてですが、退職して嫌な記憶を思い出すのはどうしてかなと考えた結果、将来に対する不安が過去の嫌な記憶を思い起こさせていると連想しました。過去の嫌な記憶を思い出している間は将来への不安を想像していませんでした。なので過去の嫌な記憶として出てくるジャ〇アンとスネ〇は私自身が将来への不安から逃れるために呼び出しているのではと思ったのです。なんだったら別の人が別の記憶で出てくれば良いのにと思いましたが、、、。そこで更に想像します。当時のジャ〇アンとスネ〇が学ランを着て私を応援することを想像します。「フレー、フレー、猫太!。頑張れ頑張れー猫太!」と想像します。嫌いな相手から好意的なことをされた方が印象が大きく残るので、嫌な記憶が出てくる時は彼らに応援団になってもらいます。

 

退職して1年経った今でもふとした時にジャ〇アンとスネ〇が頭の中で嫌がらせして来ますが上記のどれかで退治しています。

サラリーマンだった時は日々の仕事や先輩、上司、取引先のことを考えるだけで良かったのですが、無職になると考えや感情、記憶が無尽蔵に広がります。その結果私は更に病んでしまった時期もありました。しかし人生で自由な期間も今だけだと割り切って過ごしています。

働いていると不意にボーッと過ごしたいと思うかも知れませんが、いざ会社に縛られない環境になってみるとこんな状態になるんだと知っていただければ幸いです。

また、似たような悩みを抱えている方にお伝え出来たなら嬉しいです。

 

今回もここまでお読みいただきありがとうございました。

あなたの人生がよいものになりますように。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

会社を辞めたきっかけ

こんにちは。紺色猫太です。

 

今回は私が会社を辞めたきっかけについてお話しします。

 

私が勤めていた会社は都内にあるインフラ関係の会社で仕事は事務職をしていました。

社員構成は100人未満の規模で大多数が中途採用でした。私も中途採用組です。

 結論から言うと、同じ部署の先輩が大きな原因で辞めることになりました。

その先輩は40代後半で私の教育担当のような立ち位置でした。その先輩は怒りっぽく、頑固で自分の意見を出したら決して曲げない人でした。

私は入社して初めて携わる仕事も多く、その先輩に何かと聞くことが多かったです。

仕事について質問すると、その先輩は「今まではこうしてきたから」「常識だから」が口癖でした。

しかし私は「それって本当かな?」と思うことが多々ありました。

 また、怒るというかキレるんですが(ここからは「キレる先輩」と呼びます)、定時後に私とキレる先輩だけで残っている時には3日くらい後を引きずるくらいのキレ方をされました。入社して間もない状態で直属の先輩にキレられるとお先真っ暗という気持ちになります。

最初は「私のために怒ってくれているんだ」「これも成長には必要なこと」「私が不甲斐ないからこんなことになっているんだ」と思って過ごしていましたが、入社して1年を過ぎた辺りから私の体に変化が出るようになりました。

キレる先輩は私の右隣に席があるのですが、お互いデスクで仕事をしていると私の右肩がピクピクと痙攣するのです。また、月次で作成する資料を先輩に見せた時に「これ、間違っているんじゃねぇか?」と聞かれることがあるのですが、その度に私は心拍数が上がって委縮した状態になっているのです。また、何か仕事について教えてもらった時には「ハイッ、ハイッ」と肯定の返事しかしなくなりました。もう、キレる先輩に睨まれるのも怖いし何かのきっかけで怒られるのも嫌だったので完全なイエスマンになっていました。また、帰宅途中の電車の中で自然と涙が出るのです。当時は先輩に怒られてもいないのに業務上の指摘とか質問をされること自体が私にとっては恐怖となっており、帰りの電車の中で思い出すと涙がポロポロと出ました。

あとから考えてみると心が死んでいる状態だったと思います。体に不調が出始めた時からいろいろなカウントダウンを自分でし始めます。先ずは、毎朝始業前にキレる先輩が「今日は休みでありますように」と始業開始迄に来ないことを祈るカウントダウン。また、先輩が定年退職迄あと何年で私はその時には何歳だ。とかです。

 

デスクワークがメインの人は仕事環境がデスクに縛られるので嫌な先輩や上司が近くにいたとしても逃げられないと思います。

 

当時の私が行っていた先輩になるべる関わらないようにする方法を下記に記載します。

 

➀仕事を早く覚える:

キレる先輩に関わらないようにするには出来る範囲で仕事を自己完結させることです。

しかし仕事なので資料チェック等で関わる機会はありますが、その際にも指摘されないようにミスは絶対にしない。また、先輩が資料について質問しそうなところは予め資料に盛り込んでおくことをしました。そうすることでなんとか先輩とのやり取りを抑えました。

 

②別の先輩と一緒に仕事をする:

私がいた部署は複数の業務を各自が担当するものでした。しかし突発的に発生する仕事は2、3人で取り掛かることもありました。そこで、他の先輩と一緒に出来る仕事を担うようにしていきました。そうして、キレる先輩と一緒に過ごす時間の割合を減らしました。

 

そうして、3年が過ぎた頃に私とキレる先輩は異動することになりました。異動先は二人とも同じでした。

異動先の先輩や上司には「キレる先輩とあなたはこの部署に来たばかりだから先輩後輩は意識しなくていいよ」と声をかけてくれましたが、私のメンタルは既に修復出来ない所まで来ていました。もうキレる先輩が視界に入るだけで吐き気がしたり頭痛がするのです。そのころには出社時にパソコンの電源を入れてカバンを置いてトイレに行って吐くことが日課になっていました。

 

異動して半年頃から仕事で凡ミスを繰り返し体調不良で休むようになりました。決まって月曜日に休むのです。家を出て駅に向かう途中で呼吸が苦しくなったり、めまいで動けずに家に引き返すようになりました。体調不良が出るのは月曜日だけではありませんでしたが、出社前は具合が悪いのが日常になっていました。

 

このままなのは良くないと思い、自宅近くの心療内科に受信したところ

適応障害」と診断されました。

(ちなみに会社のストレスチェックでも「高ストレス」でした)

 

しばらくして、業務成績が悪くなっている頃に自分の部署の役員に呼ばれました。役員は異動先の上司から私の調子がおかしいと聞いており、直接話をすることになりました。

その役員は私を入社時から高く買ってくれていましたが、上司からの話を受けて「最近は元気がない」「努力が足りない」「前みたいに元気に挨拶をしろ」と言われました。当然、役員は私が異動前に先輩とのいざこざで病んでいることは知りません。異動先の上司も私が単に「仕事ができないやつ」くらいの認識しかなかったようです。

役員と話をした時に「産業医に相談してみればどう?」と言われました。

 

正直、誰に相談しても環境は変わらないし、自分自身の状態が改善するとは思えなかったので外部の人に話だけでも聞いてもらおうと産業医に相当することにしました。

 

そして、産業医に相談したことが退職のきっかけになりました。

 

月に1度、産業医の先生が会社に来て、職場環境チェックと勉強会、希望者には面談を行います。私も総務部に面談希望を出して面談しました。

産業医の先生には私の体調不良について話しました。そこで初めて「会社を辞めたいと思っている」と言いました。退職の話をする順序としては本来は直属の上司→担当役員の流れですが、私の当時のメンタルでは直接は言えませんでした。また、産業医の先生と話をするうちに「あぁ、自分はこの会社ではこの先はやっていけない」という感情が固まって来ました。産業医が辞意を受けても総務部に面談内容の一部として伝えることしか出来ないとのことでしたが、お願いすることにしました。

 

15分程度の面談を終えてデスクに着くとキレる先輩がやって来ました。そこで「どうして離席してたの?PC上の共有スケジュールには何も書いてなかったけど」と言われました。別の先輩からは30分未満であればスケジュールに書かなくても良いと聞いていたので書かないつもりで産業医と面談していました。立て続けにキレる先輩から「勝手に離席すると懲戒になっちゃくうよ」と言われました。私は「????」「、、、すいません」と言いその場は終わりました。しかし「懲戒」という言葉がインパクトが強すぎて家に帰っても動揺していました。翌日、私は会社を休みました。

 

体調不良で休んだ翌日、直属の上司と面談することになりました。上司は気まずそうに私が産業医と面談した時にスケジュールに残さずに離席したことでキレる先輩から「懲戒だ」と言われたことについて謝られました。しかし私の辞意は固まっていました。上司から「総務部経由で聞いたけど、、、その、、、辞めたいっていうのは本当なの?」と聞かれ私は「はい。辞めるつもりです。」と上司に告げました。そこからは上司から役員に伝わり、退職になりました。

 

辞意を伝えてから退職日まで約2週間は業務をすることになりました。体調不良は変わりませんでしたが、最終勤務日までの日々のカウントダウンは楽しかったです。

 

ただ、後味が悪かったのが、直属の上司が私の最終勤務日前日に後輩と廊下で私のことを「プライドが高い」「自己管理が出来ていない」と話していたり、最終勤務日に私の席だけ別の場所に移ることを直前まで私にだけ教えてくれていなかったりしたので、「あぁ、人って信用できないなぁ」と思わされました。今では辞めて良かったと思っています。

 

結局のところ、私は会社で精神・体調面の不調を我慢して来ましたが辞めて思うことは以下です。

 

➀自分を守れるのは自分だけ

「毎日ちゃんと出勤する」ことを褒めてくれる人はいない。体調不良でも休みを勧めてくれる人はいない。自分の管理は自分しかできない。

 

②最初に辞意を伝えるのは直属の上司でなくてもよい

本来は直属の上司なのでしょうが、精神的に病んでる状態ではハードルが高いと思います。また、辞意の原因が上司だった場合は尚更です。最初の辞意の伝え先が上司である必要は無い思います。

 

③事態が好転することを考えて待ち続ける必要は無い

結局私はキレる先輩と最後まで同じ部署だったわけですが、毎年3月末の内示を心待ちにしていました。どちらかが異動すれば私はキレる先輩から距離を置けると思ったからです。しかし奇跡は起こりませんでした。自分に都合の良い環境の変化等はそう簡単に訪れるわけではないので、望む環境は自分で作るしかないと思います。

 

この記事を読んだ方で「こんな考えは弱いやつの思考だ」と思う方が中にはいると思います。ですが、別に他人の考えに左右される必要はありません。自分の人生の決定権は最後まで自分が持っているべきだと思います。でないと後々で後悔することになると思うから、、、

 

 

以上が私が会社を辞めた経緯です。

 また近い内に投稿します。ここまでお付き合い下さりありがとうございます。

あなたの人生がよいものでありますように。